1
講談教室第5期 募集中 2010 年 1 月 21 日(木)開講 「邦楽のある暮らし」神田香織  「新内」という語り物を知らなかった訳ではない。講 談の世界に入ったばかりの前座の頃、昼席が講談、夜 席が新内の会なんて事はしょっちゅうで、大急ぎで後 片付けをして上野広小路の本牧亭を後にしたものだっ た。 今にして思えば「講談」も「新内」も日本の伝統的 な優れた表現法という括りでは一緒なのに、まったく もって興味がなかったというのは勿体無いもので、何 年か前に百才以上の高齢でお亡くなりになられた新内 界の大御所、岡本文弥先生とは楽屋で御挨拶しただけ。 正面の客席でじっくり聞かせてもらうんだったと、こ の頃しみじみ後悔している。というのも私自身が今年 の春から新内と三味線のお稽古に通い始め、その新鮮 な魅力に興味がわき始めているからかも知れない。 なぜ今邦楽を始めたか?理由は二つある。一つは、 去年湯本温泉観光協会が芸者さんを支援し、後継者の 育成もめざす目的で芸能保存会「芸の虫」を結成し、 これに参加した事。とっつきにくいと思っていた邦楽 が実は楽しいものだと言う事に気がついた。「芸の虫」 は月二回の稽古で、本物の芸者さんが「常磐炭坑節」「湯 本小唄」などの唄や踊りや三味線まで直に教えてくれ るというもの。「炭坑節」は今、私の仕事、特にいわ き市の PR をするときなど大いに役に立っている。 理由の二つ目は、講談一席語ったあと拍手をもらい 引き上げる、というのだけでは物足りなさを感じるよ うになったから。寄席の通言に「下げ物」という言葉 がある。噺をすませたあとで余興としてやる踊りや唄 のことだ。私も講談を聞いて下さったお客様に感謝の 気持ちを込めて、三味線をつま弾きながら何か唄えた らいいなと。それには先生について充分にお稽古を重 ねなければ…。 そんな訳で、友人の紹介で千歳派家元の富士松鶴千 代氏に新内を中心に端唄、小唄、俗曲、都々逸などを 教わる事になった。なぜ「新内」が中心か?実は新内 には声の出し方のあらゆる要素、高低、強弱、小節、 台詞回しなどが入っており、これが出来るようになれ ば他は楽にマスター出来るのだそうだ。仕事で上京し た折、時間が取れる時に稽古をつけてもらう事にして いる。 東京は神谷町、オフィスビルが立ち並ぶマンション の一室を和風にしつらえそこが稽古場。一歩室内へ入 ると都心だということを忘れてしまう。お稽古の初日 に家元に「新内」について色々お聞きした。江戸浄瑠 璃の語り手の名手「鶴賀新内」の名前に由来し、同じ 江戸浄瑠璃の常磐津や清元などが歌舞伎の伴奏音楽と して活躍したのに対して、新内は遊廓や花柳界中心に 恋愛物を人情の機微に触れながら、人生の哀感を鋭く 歌い上げる独特なものとして江戸庶民の強い支持を受けた。 『らん蝶』『明烏』などほとんど舞台が廓で、命をかけた恋愛 物語に酔った男女が次々と心中を図ったため、公の場所での 上演が御法度になったと言う。 早速お稽古に入った。演目は新派でお馴染み「滝の白糸」。 台詞、民謡、小唄が入った家元の創作もの。この最初のお稽 古は私にとって実に新鮮な驚きに満ちていたものだった。ま ず、楽譜がない。『外国のオペラが我が国のクラシック』になっ てしまった日本では学校で西洋音楽しか教えていないから、 五線符やオタマジャクシがないと不安でしょうがない。だか ら、聞いた通りに声を出す為には、全身がダンボの耳になる ぐらい集中しなければならない。そして夢中で真似る。真似 るのも雲を掴むような感じ。なにしろ「月が出た」の「つ」 だけでも延々と続く、しかも2オクターブの音域で。また、 ある程度の常識がないと語れない。例えば「河原に咲きし、萩、 桔梗 ?」というフレーズでは、河原に咲く「萩」や「桔梗」 をイメージし、それぞれその色や姿にふさわしい声を出し表 現しなければならない。つまり、「萩」「桔梗」そのものを知 らないと話にならないと言う事になる。この事は私にいろん な事を感じさせてくれた。 最近よく、戦後日本は偏差値教育、管理社会。高度成長期 を経て今に至ったが、「大切なもの」を置いてきぼりにして 来てしまったとか、「心の教育」というが「心」は学校が教 えるのではなく、何気ない日常生活の中で自然に育まれるも のだという意見を耳にする。「偏差値教育、管理社会」の対 極が「感性重視、趣味社会」だとすれば感性、情感、情緒、 教養に満ちている邦楽を生活に取り入れないのは勿体無いの ではないだろうか。一日の仕事を終え、家に帰って湯舟につ かる。あ ? いい気持ち。こんな時口をついで出るのは都々逸 「たんと?売れても?売れない日でも?同じ機嫌の風車」。都々 逸の創始者都々逸坊扇歌の代表作だ。 この人は若い頃湯本 に留まって芸の修行をしたとも言われている。「あ?、自分 も風車のように生きたいものだ。景気が好くても悪くても、」 と自分を慰める。そして即興で「勿来の関は ? 不思議なとこ ろ ? 来るなといいつつ ? 客を待つ」なんて歌ってみる。 豊かだと思いませんか、邦楽のある暮らしって? 1998.10.20 使 退 1 ? ? 1 (前座) 織吉 織丸 織鏡 織舞

講談教室第5期 募集中 - ppn.co.jp · るのも雲を掴むような感じ。なにしろ「月が出た」の「つ」 だけでも延々と続く、しかも2オクターブの音域で。また、

  • Upload
    others

  • View
    1

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 講談教室第5期 募集中 - ppn.co.jp · るのも雲を掴むような感じ。なにしろ「月が出た」の「つ」 だけでも延々と続く、しかも2オクターブの音域で。また、

講談教室第5期 募集中2010 年 1月 21 日(木)開講

吉田浩二(織吉)

 

損害保険協会から縁

あってサロンの一期生

として入会させていた

だきました。それから

2年が経とうとしてい

ます。

 

協会からは3人参加

させていただいたのですが、もっとも元気で

中心的な立場であった田和氏は病魔との戦い

に勝てず誠に残念ながら鬼籍に入ってしまい

ました。小塚氏は松山に転勤となり、私一人

が残っています。

 

最初はサロンでの講談の稽古よりその後の

飲み会が楽しくてせっせと通っておりました

が、二期生、三期生とモチベーションの高い

連中が入ってきてレベルが格段に上がって飲

み会でへらへら言っているばかりでは、立場

が弱くなってくる危機感を背中で感じるよう

になりました。

 

それから、稽古にも身が入るようになって

次第で、今は両方楽しめるようになりました。

とは言え、六〇過ぎの手習いで記憶力も衰え、

ねたを覚えるのが一苦労ですが、何とかかん

とか、よろよろとついて行きたいと老骨に鞭

打っています。そし

て縁を取り持ってく

れた田和氏に「織吉っ

あん聴かせるように

なったねえ」と天か

ら声をかけてもらい

たいと願っています。

「邦楽のある暮らし」神田香織 

「邦楽のある暮らし」の紹介私が新内を習いだした頃、まだいわきに出戻っていた頃の

エッセーです。もう12年も前にかいたものですけど、新内を習いだした本間さん、参

考にしてくださいね。

「新内」という語り物を知らなかった訳ではない。講談の世界に入ったばかりの前座の頃、昼席が講談、夜席が新内の会なんて事はしょっちゅうで、大急ぎで後片付けをして上野広小路の本牧亭を後にしたものだった。 今にして思えば「講談」も「新内」も日本の伝統的な優れた表現法という括りでは一緒なのに、まったくもって興味がなかったというのは勿体無いもので、何年か前に百才以上の高齢でお亡くなりになられた新内界の大御所、岡本文弥先生とは楽屋で御挨拶しただけ。正面の客席でじっくり聞かせてもらうんだったと、この頃しみじみ後悔している。というのも私自身が今年の春から新内と三味線のお稽古に通い始め、その新鮮な魅力に興味がわき始めているからかも知れない。 なぜ今邦楽を始めたか?理由は二つある。一つは、去年湯本温泉観光協会が芸者さんを支援し、後継者の育成もめざす目的で芸能保存会「芸の虫」を結成し、これに参加した事。とっつきにくいと思っていた邦楽が実は楽しいものだと言う事に気がついた。「芸の虫」は月二回の稽古で、本物の芸者さんが「常磐炭坑節」「湯本小唄」などの唄や踊りや三味線まで直に教えてくれるというもの。「炭坑節」は今、私の仕事、特にいわき市の PRをするときなど大いに役に立っている。 理由の二つ目は、講談一席語ったあと拍手をもらい引き上げる、というのだけでは物足りなさを感じるようになったから。寄席の通言に「下げ物」という言葉がある。噺をすませたあとで余興としてやる踊りや唄のことだ。私も講談を聞いて下さったお客様に感謝の気持ちを込めて、三味線をつま弾きながら何か唄えたらいいなと。それには先生について充分にお稽古を重ねなければ…。 そんな訳で、友人の紹介で千歳派家元の富士松鶴千代氏に新内を中心に端唄、小唄、俗曲、都々逸などを教わる事になった。なぜ「新内」が中心か?実は新内には声の出し方のあらゆる要素、高低、強弱、小節、台詞回しなどが入っており、これが出来るようになれば他は楽にマスター出来るのだそうだ。仕事で上京した折、時間が取れる時に稽古をつけてもらう事にしている。 東京は神谷町、オフィスビルが立ち並ぶマンションの一室を和風にしつらえそこが稽古場。一歩室内へ入ると都心だということを忘れてしまう。お稽古の初日に家元に「新内」について色々お聞きした。江戸浄瑠璃の語り手の名手「鶴賀新内」の名前に由来し、同じ江戸浄瑠璃の常磐津や清元などが歌舞伎の伴奏音楽として活躍したのに対して、新内は遊廓や花柳界中心に恋愛物を人情の機微に触れながら、人生の哀感を鋭く

歌い上げる独特なものとして江戸庶民の強い支持を受けた。『らん蝶』『明烏』などほとんど舞台が廓で、命をかけた恋愛物語に酔った男女が次々と心中を図ったため、公の場所での上演が御法度になったと言う。 早速お稽古に入った。演目は新派でお馴染み「滝の白糸」。台詞、民謡、小唄が入った家元の創作もの。この最初のお稽古は私にとって実に新鮮な驚きに満ちていたものだった。まず、楽譜がない。『外国のオペラが我が国のクラシック』になってしまった日本では学校で西洋音楽しか教えていないから、五線符やオタマジャクシがないと不安でしょうがない。だから、聞いた通りに声を出す為には、全身がダンボの耳になるぐらい集中しなければならない。そして夢中で真似る。真似るのも雲を掴むような感じ。なにしろ「月が出た」の「つ」だけでも延々と続く、しかも2オクターブの音域で。また、ある程度の常識がないと語れない。例えば「河原に咲きし、萩、桔梗 ?」というフレーズでは、河原に咲く「萩」や「桔梗」をイメージし、それぞれその色や姿にふさわしい声を出し表現しなければならない。つまり、「萩」「桔梗」そのものを知らないと話にならないと言う事になる。この事は私にいろんな事を感じさせてくれた。 最近よく、戦後日本は偏差値教育、管理社会。高度成長期を経て今に至ったが、「大切なもの」を置いてきぼりにして来てしまったとか、「心の教育」というが「心」は学校が教えるのではなく、何気ない日常生活の中で自然に育まれるものだという意見を耳にする。「偏差値教育、管理社会」の対極が「感性重視、趣味社会」だとすれば感性、情感、情緒、教養に満ちている邦楽を生活に取り入れないのは勿体無いのではないだろうか。一日の仕事を終え、家に帰って湯舟につかる。あ ?いい気持ち。こんな時口をついで出るのは都々逸「たんと?売れても?売れない日でも?同じ機嫌の風車」。都々逸の創始者都々逸坊扇歌の代表作だ。 この人は若い頃湯本に留まって芸の修行をしたとも言われている。「あ ?、自分も風車のように生きたいものだ。景気が好くても悪くても、」と自分を慰める。そして即興で「勿来の関は ?不思議なところ ?来るなといいつつ ?客を待つ」なんて歌ってみる。 豊かだと思いませんか、邦楽のある暮らしって?1998.10.20

高橋織丸

回り道人生?講談との不

思議な出会い

 

私と講談との最初の出

会いは、七十年代半ばか

ら後半。当時、田辺一鶴

師匠がデビューしテレビ

等で八面六臂の活躍中。

その後女性講談師が続々

と誕生。本牧亭で「白雪姫」など、これまでの

軍記物や武勇伝とは違った文学的で演劇的要素

をふんだんに盛り込んだ創作講談が登場し始め

た頃である。

 

こうした中で七六年春?本牧亭で「琴鶴(宝

井馬琴師匠の二つ目時代の講釈師名)修羅場塾」

が開催され新聞でも紹介された。当時働いてい

た築地魚市場の友人と二人で数ヶ月間通ったこ

とがある。今にして思うと政治家の卵から多種

多様な職種の方々が、本牧亭の客席大広間に一

堂に会して大声で軍談修羅場を合唱。その後は、

舞台裏手の広い楽屋を使って二班に分かれての

稽古。当時、この教室は、講談復興を願って一

般公募による初めての教室だったといえる。

 

しかし稽古は、軍記物、合戦物ばかりだった

ので、ブレヒト好きな演劇青年であった私に

とって、少々退屈であった。それゆえ講談の真

髄や良さを学び見極める前に、いとも簡単に辞

めて再び演劇の道に専念したのである。

 

それから三十余年経った二〇〇七年師走。労

働者や市民文化活動家によって毎年開催される

文化祭典「レイバーフェスタ」で、同年五月、ワー

キングプアと言われる人たちが集まって開催し

た「自由と生存の第一回メーデー」で、警察・

機動隊によってサウンドデモの隊列が暴力的に

排除・規制され、3名の若者が逮捕されるとい

う弾圧事件があった。それを取材した創作講談

「プレカリアートの反撃」を映像付で演じたと

ころ、思いがけず観客席から拍手喝采。終演後、

「芝居より講談の方が向いているのでは」と数

人の友人から言われ、その気になって早速ネッ

トで数ある講談教室の中から丁度1期生募集中

の「講談サロン香織倶楽部」に申し込んだので

ある。

 

十二月二十五日、上野の街はクリスマスで賑

わっていた。広小路亭の三階の教室は、

一見和気藹々でのどかな教室風景であっ

た。が、私にとってはこの日が講談とい

う「悪場所の世界」(広末保著「

悪場所の

発想」

を参照)に足を踏み入れた瞬間でも

あった。以来、香織師匠をはじめ今や外

神田一門の同志の面々と講談の稽古の後

は必ず酒を酌み交わし、最終電車まで口

角泡を飛ばして講談成らず世相巷談をネ

タに議論することしばしば。それゆえ道

楽にはおよそ縁遠い堅気の家人は、最近

中々芸が一挙に上達しないと見るや、講

談の修行とは名ばかりで、酒を飲みに出

かけるのが目的では?と、疑いの目を向

け始めている。

 

そもそも講談教室は数あれど、なぜこ

の教室を選んだかと言えば、まず何より

も師匠が凛とした美人であったことであ

る。(と言うのも、それまで一度もどの師

匠の講談も聴いたことがなかったゆえ、

ネット上での師匠の顔から向き不向き?

を判断するしかなかったからである。余

談だが、わが連れ合いは、声と筆美人。志、

心根とともに声と字の綺麗な人も人間の

魅力的条件の一つといえる。しかし、かっ

て聞き惚れた美声も最近では少々説教が

ましくなり、時として耳障りの時もある。

が、これも慣れてくると我が人生への叱

咤激励と有り難く聞こえてくるから魔か

不思議だ。)

 

二つ目の理由は、父が広島で被爆体験

を持ち、幼い頃から原爆・核問題に強い

関心を抱いていたゆえ、師匠の代表作が

「はだしのゲン」と聞き、そして音楽の中

で大好きなのがジャズとシャンソン。そ

れゆえ講談「ビリーホリディ物語」をは

じめ、「国鉄労働者義人伝」「チェルノブ

イリ物語」など実に興味深いテーマと人

物を講談にされていた点である。

 

今後、私がめざすのは「強きをくじき、

弱きを助けるジャーナリスト」のような

社会派講談師である。外神田だから自由

奔放にできる創作講談をいつか演じられ

たら本望だ。

 

今にして思うと、三十数年前に講談の

良さを少しでも理解していたならば、こ

んなに回り道をしなくても済んだのに・・・

と内心悔やむ。だが今更人生のやり直しは利か

ない。某女性作家が生前、八十歳をすぎても危

険なアクロバット入りダンスに挑戦。その時に、

周囲は驚いたが「人間って、これはと思って始

めた時が、その人の年令なのよ」とさらりと言

いのけたという。私の場合は「講談に五百有余

年の歴史あり、わが人生、思い立ったが講釈師

の始まり」と言える。講談との出会いは、私にとっ

て新たな青春の始まりとなりつつある。

吉川幸子 

 

はじめまして!人生のなかばすぎ日々の暮ら

しに嫌気をさし何か楽しみや生きがいをもとめ

て漂流してたどりついたのがこの世界まだ片足

だけですがおくが深い!アホには無理〜なんて

1回で挫折しそうになったけどそこは生まれな

がらのアホゆえん?

たちなおりも早い!やって

みるかヽダメでもともと楽しもってノリですが

怒られるかな?香織先生にみんな真剣なのよっ

てしかし怒った顔も見てみたい?

綺麗やし凛と

して女性として人としてあこがれます少しでも

近づきたいですってこうやって活字にはだせる

かど私は人前にたつのが大の苦手なのです冷汗

がでて言葉もモゴモゴ原因はわかってます自分

に自信がないからです生まれてから1

度も褒め

られたことがないからですそんな私でもいつか

とりあえずこの世界を覗いてきまぁ〜す

(前座)織吉織丸織鏡織舞